岡山アパレルヒストリー Okayama Apparel History

■昭和期・平成期

>>  江戸期~大正期

時代 全国 / 全国から見た岡山 岡山アパレルヒストリー














|
























 <昭和> 学生服王国児島の誕生、 国内産ジーンズ生産の始まり 児島・井原
昭和始め~1935(昭和10)年頃
 服装の洋風化が進む。 学生服の普及が急ピッチで進み、
  1935(昭和10)頃には、ほとんどの児童が学生服を着ていた。

1934(昭和9)年~1937(昭和12)年
  児島で生産された学生服は、75万着を達成する。<児島>
1937(昭和12)年
 太平洋戦争へ突入  戦中戦後しばらくは、児島では学生服生産が縮小し、井原では備中織物は影をひそめた。
 戦時中~終戦まで、綿ゲートルの需要全国的需要があった。
 戦時中、児島特産のアート帯、リング帯が女性の人気を集めた。
1938(昭和13)年
 禁綿三法施行
学生服生産が縮小
1941(昭和16)年
 終戦
 学校生徒の制服統制とその通牒
1947(昭和22)年
  教育基本法、学校教育法施行 黒詰襟学生服、セーラー服が復活
1950(昭和25)年
  禁綿三法解除
学生服生産再開され、新規業者も続々と誕生した。<児島>

この頃から、スフ織物への移行が急ピッチで進み、また小倉織物から薄地の染色織物の需要が増加した。<井原>
素材が木綿からナイロン、テトロンなど合繊の時代へ
ビニロン学生制服が登場、繊維の高度成長期を迎える。

せんい児島瀬戸大橋まつり

1955(昭和30)年
 第1回児島繊維祭開催
 (その後、「せんい児島まつり」「せんい児島瀬戸大橋まつり」と名称変更)<児島>
:「ファッションタウン児島ビジョン2001」から


この頃、児島生産の学生服が全国の70%を占める。<児島>

高度経済成長期(1950年代半ば頃~1970年代初頭)を迎える。
 高度経済成長の波に乗り、作業服の需要が高まり、生産が拡大する。
1960(昭和35)年
 備中織物においても、合繊織物の生産量が飛躍的に伸び、生産量の最高記録を示した。<井原>

アメリカ衣料専門店が若者に人気。米軍などの中古衣料を手直ししていた。

1962(昭和37)年
 岡山国体開催
  1963(昭和38)年
 児島では、学生服1006万着を生産し、史上最高を記録<児島>
1964(昭和39)年
 東京オリンピック開催
 この頃から、児島の企業は学生服のみならず、体育衣料、オフィスウェア、ワーキングウェア生産に進出
光輝縁の生産が向上し、日本一となる。<児島>

1965(昭和40)年
 (株)ビッグジョン 初の国産ジーンズ「ビッグジョン」ブランド発表<児島>
1970(昭和45)年頃
 
日本万国博覧会
  この頃、日本国内にジーンズブーム到来 児島、井原がジーンズの代表的な生産地となる

*ベティスミスジーンズミュージアム
1970(昭和45)年
 (株)ベティスミス 初のレディースジーンズ発表<児島>

  1973(昭和48)年頃
 井原では、ジーンズの生産量が1500万本に達する。<井原>
1980年代
 高校を中心にブレザー化へのモデルチェンジが進み、学校別制服の波が押し寄せる。
1980(昭和55)年
 1980(昭和55)年頃から、全国的に学生の服装の乱れが問題となる。

1981(昭和56)年
 「せんい児島瀬戸大橋まつり」と改称<児島>
1982(昭和57)年
 「標準型学生服」を認定する「日被連認証マーク制度」が発足
1988(昭和63)年
 瀬戸大橋開通
時代 全国 / 全国から見た岡山 岡山アパレルヒストリー






|
 <平成> 岡山アパレルヒストリーは、新時代へ  国内初のエコ産地を目指す
1989(平成元)年
  デザイナーズ・キャラクターブランド学生服の誕生
1999(平成11)年
  岡山県アパレル産地環境ビジョン策定 。地球環境に優しいエコ学生服の誕生。
  小学生用通学服の開発。 学生服業界の新規分野を開拓する。

2001(平成13)年
 岡山国産エコ・ユニフォーム総合展示会の開催


>>  江戸期~大正期