>> 昭和期・平成期
時代 | 全国 / 全国から見た岡山 | 岡山アパレルヒストリー |
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江
戸 一 六 一 五 | 一 八 六 七 |
<江戸> 岡山アパレルヒストリー黎明期 児島では綿、井原では藍の栽培が始まる
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江戸中期頃~ 藍の栽培が伝来し、井原でも栽培が行われる。 |
児島では、綿、大豆、砂糖が盛んに栽培された。
以後、 真田紐、袴地生産、小倉帯地、足袋の生産が始まる。 井原では、藍染織物が作られるようになり、備中織物の基礎となる。やがて、備中縞の名声が全国的に広まる。 |
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江戸~明治中期
由加山が金毘羅さんと並ぶ信仰地として栄えた。 |
当時は、由加山の参詣人が、児島特産の真田ひも・小倉織などを競って買い求めたと伝えられている。 |
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時代 | 全国 / 全国から見た岡山 | 岡山アパレルヒストリー |
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<明治> 洋装の歴史は制服から始まった
~ 日本の紡績業を支える岡山アパレル産業 ~
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1868(明治元)年
明治維新 上流階級から洋装が広まる。 |
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1876(明治9)年
廃刀令 1877(明治10)年 西南戦争 |
帯刀のために便利であった、小倉帯や、真田帯の需要がなくなった。 その代わり、 ランプ芯、足袋、厚司、袴地、腿帯子、ゲートル、韓人ひもなどの生産が始まった。<児島> |
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1879(明治12)年
華族学校(現・学習院大学)で海軍士スタイルの制服採用。女子はバックスタイル洋装制服。以後、次々に制服が制定される。 |
*左:海軍中将の軍装(昭和初期頃)。この制服をモデルに学習院制服が作られた。右:華族女学校一期生が卒業時にそろえて誂えたドレス。 |
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明治10年代~30年代 全国各地で、紡績会社が次々とできた。織機にも改良が加えられ、種々の織物が生産されるようになる。
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1882(明治15)年 下村紡績所が開業する。<児島> |
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1891(明治24)年 井原織物(株)設立される。<井原> |
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1893(明治26)年 足袋製造に手動ミシンが使用され開始する。<児島> |
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1897(明治30)年頃~ |
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1901(明治34)年 |
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1906(明治39)年 |
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大 正 一 九 一 二 | 一 九 二 四 |
<大正> 戦争の足音、激動の時代へ ~ 学生服生産が岡山で始まる
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1912(大正元)年 井原で生産される小倉服地の海外輸出が始まる。以後、第二次世界大戦まで「備中小倉」として名声を馳せる。<井原> |
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1914(大正3)年~1918(大正7)年
第一次世界大戦 |
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1914(大正3)年 下津井軽便鉄道開通、繊維製品や観光客の輸送に役割を果たす。<児島> |
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この頃、角南周吉が学生服の製造を開始する。<児島> | ||
1916(大正5)年~1919(大正8)年 足袋が生産量1000万足を越えて日本一となる。<児島> |
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1918(大正7)年~1920(大正9)年 綿糸布価格急落により、県下機業界に休業続出。 |
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1920(大正9)年
平安女学院がセーラー服初導入 |
*セーラー服が採用され始めたこの頃、生活様式の洋風化が進む。当時、女学生はまだ数少ないエリート。当時としてはモダンなセーラー服は、エリートイメージとあいまって好意を持って受け入れられ、女学生=セーラー服のイメージが急速に広まっていったと考えられる。 |
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中国向けの腿帯子の輸出が減少し、 国内でも、電気の普及により、ランプ芯の需要も減少してきた。 | ||
1921(大正10)年 唐琴の松井武平が光輝畳縁の製造を開始する。<児島> |
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1921(大正10)年 児島織物(合)が足踏みミシンを導入し、学生服の生産を開始する。<児島> |
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1923(大正12)年
関東大震災 |
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1923(大正12)年 尾崎商事(株)が学生服生産に乗り出す。以後、(株)トンボ、明石被服興業(株)が相次いで学生服作りを開始する。<児島> |
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第一次世界大戦後、足袋の需要が激減する。 足袋の裁断・縫製の技術がそのまま学生服の生産に活用され、学生服が児島の混迷期の新風となる。<児島> |
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この頃、児島唐琴は、光輝畳縁の一大産地となった。<児島> *写真は、現在でも生産が行われている畳縁・組みひも |
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大正末頃、 腿帯子が中国の国内事情により衰える。 |
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